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日本の歴史について・・
No.
2018/06/20 (Wed) 10:49:34

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No.5
2009/12/28 (Mon) 13:33:14

飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なるが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。
狭義には、崇峻5年(592年)から持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。
以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。

この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされている。

名称
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。
1900年前後に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。
日本史では通常岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代として区別する事がある。

推古朝
538年(宣化3年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明2年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。
後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。
物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。
588年(崇峻元年)には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。
厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。
604年(推古12年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築いた。

 

607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。
留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。
620年(推古28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。

国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和政権の地方行政的な性格を持つものである。

推古29年(621年)に摂政であった厩戸皇子が、同34年(626年)には蘇我馬子が、さらに、推古天皇は36年(628年)に没し、36年間の長期に渡った日本歴史上初めての女帝の時代が終わる。

舒明・皇極朝
聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されている。
推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。
蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにした。

孝徳朝
645年(皇極4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

新たに即位した孝徳天皇は次々と改革を進めていった(大化の改新)。
日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月には改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。
その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。

天智朝
孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。
中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。
斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。
そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。
666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれている。

668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。

天武・持統朝
天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こった。
672年(弘文元年)壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移した。
官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始した。
5年後の686年(朱鳥元年)に天武は没する。
8年後の689年(持統3年)には諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。
690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。
692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。
さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

694年(持統8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。

持統天皇は子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定された。
これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。
これをもって、一応の古代国家成立と見る。

中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制がとられ、地方行政組織は、国・郡・里制がとられるようになった。
租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。
また律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

文武の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に平城京へ遷都した。

 

 

 

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