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日本の歴史について・・
No.
2024/03/28 (Thu) 22:35:54

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No.3
2009/12/10 (Thu) 16:59:51

紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。
時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。
稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。
農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。
当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。

当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。
大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。
紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。
倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。
その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。
しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。
卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

弥生時代(やよいじだい)は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃(ただしこの年代には異論もある)から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。
具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった(しかし、1994年、縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡(みなみみぞていせき)の土器片中からプラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見され、さらに同県真庭市美甘(みかも)姫笹原の4500年前の土器にもプラントオパールが発表され、2005年には岡山県灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層から大量のプラントオパールが見つかり、少なくとも約3500年前からすでに陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表され、また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたともいわれ、現在では弥生時代のはじまりと定義される稲作開始時期自体が確定できない状態である)。

名称
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。
当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。

概要
紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。 初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、福岡市那珂、糟屋郡粕屋町江辻、糸島郡二丈町曲り田遺跡、野多目遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。
弥生時代のはじまりである。

近年になって水稲である温帯ジャポニカは縄文晩期には導入されていたことが判明しつつあり、さらに近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。

また、稲の伝来ルートについても従来は遼東半島から朝鮮半島を南下して九州北部に伝来したという説があったが、

■遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
■朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
■極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されないこと
などの複数の証左から否定されつつあり、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が出始めている(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられている)。
また池橋宏は長江下流域から、山東半島、朝鮮南部を経由して北九州へ伝来という説を唱えている。

紀元前10世紀後半に北部九州に伝わった水田稲作は、近畿南部に伝播するまでに300~400年、南関東までは実に700~800年ほど経過している。
昭和56年(1981)、弥生時代中期の遺跡が青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。
その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本平、千曲川流域までひろがった。
中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかった。
その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということがあげられる。 水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえる。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。 道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれた。
また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。
大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。
このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられた。
なお、この頃の日本は、大陸からは倭と呼ばれていた。

一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。
併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美諸島の歴史、先島諸島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。
また、3世紀は海退期であり、海が退いていき沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

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