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日本の歴史について・・
No.
2024/03/29 (Fri) 19:06:09

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No.4
2009/12/21 (Mon) 18:56:43


3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。
ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。

4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ多く流入した。

5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢によって冊封体制下に参入することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。
中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
倭王は恐らく後世雄略天皇と諡(おくりな)され、倭の五王最後の倭王武に比定されている大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)より、国内に対し治天下大王と称し、かつ中国の王朝の冊封体制より離脱したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。
この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。

倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、北陸と近江に根拠地を持つ傍系王族から即位したとされる継体天皇の登場により、ヤマト王権による列島支配が強まり、一方、朝鮮半島諸国の国際関係への介入傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。

同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。

この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。


概要
この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。
3世紀の後半から奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現し、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。
つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。
これは、ヤマト王権が確立し、中央・地方の統治組織をできあがり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。
大王の墓は特別に八角墳として築造された。

対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが広開土王碑文などから知られる。
5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。
倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。
中国と朝鮮から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。
また、隋書などにおいても、倭国は珍物が多く、高句麗や新羅を従えていたとの記述が存在する。

青銅器も大陸から移入されたが、古代オリエント地域などと違って鉄器使用の年代と隔たりがないため実用に用いる機会に乏しく、性能に優れた鉄に取って代わられた。
そのため青銅器は銅鐸など祭祀・宗教用途に用いられるに留まっている。

時期区分
3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀のはじめごろ、東北地方では8世紀の末ごろでほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。

古墳時代前期 
箸墓古墳3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。
それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。
この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。


古墳時代中期 
大仙陵古墳(大阪府堺市)5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。
5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。
各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。

5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。
北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。

5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

古墳時代後期
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した

古墳時代終末期 
石舞台古墳全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。

地域国家から古代国家へ 

 初期ヤマト王権
弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。
このいずれかが母体となって3世紀半ばまでにヤマト王権が成立したと考えられているが、考古学の成果は奈良盆地勢力が吉備政権などと連合してヤマト王権へ成長したことを強く示唆している。
北部九州の勢力が奈良盆地勢力を制圧し、奈良盆地へ東遷したとする見解もあるが、次第に支持を失ってきている。

ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが(→弥生時代の墓制を参照)、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされている。

ヤマト王権は、ヤマト地方を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭を代表する政治勢力へと成長し、支配拡大の過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられており、『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不詳である。

 倭の五王の時代
中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。
421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。
これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。
これが「倭の五王」である。
倭の五王は、日本書紀に見える天皇に比定されており、必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇と見られている。武が中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群(へぐり)氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱(527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。

 古代国家の成立
安閑(531年-535年)・宣化(535-539年)・欽明(539-571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。
王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣をつくるなど、各地の豪族が部などをつくり、勢力をはっていた。

宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増し、崇峻朝(587年-592年)では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った。崇峻天皇は592年、蘇我馬子の手筈により暗殺される。
稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が645年(皇極天皇4年)の乙巳(いつし)の変までの約半世紀間続いた。

欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。
また、この欽明朝では仏教の伝来があった。
538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事がわかっている。仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わる。



 

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